心の墓場

ここは言葉の掃き溜め、墓地のような場所。                      愚痴が中心ですので苦手な方はお笑いでも見ててください。

この生き方しかできないから

「出奔する。ここに私の居場所はない」

人生一度は言ってみたい台詞である。

漢の高祖劉邦を支えた参謀、陳平は類稀なる智謀を持ち合わせながら劉邦と出会うまで主君に恵まれませんでした。しかし、あまりにも智謀に優れていたため主君である劉邦に生涯警戒されることに。しかし陳平は自分の才を用いてくれた劉邦に恩義を感じ、警戒されていることを知りつつも漢の忠臣であり続けました。劉邦の危機には奇策で命を救うなど、彼の天下統一に貢献しました。

楚漢戦争に勝利した劉邦は高祖として「漢」王朝を建国する。高祖が没し、外戚である呂氏による功臣の粛清や一族による独裁政権が始まっていくと、功臣たちは陳平を頼るようになります。陳平は表では呂氏に協力的なフリをして、水面下で政権を取り戻す謀をめぐらせていました。陳平は生き残りの功臣たちと一斉にクーデターを起こし、呂氏一族を粛清。新しい皇帝(文帝)を即位させ、漢が呂氏のものになるのを阻止しました。

陳平という男がいなかったら中国の歴史は大きく変わっていたかもしません。

漢の末期、曹操は人材登用のキャッチコピーに「今世の陳平求む!」みたいなことを使っていたそうです。陳平は素行があまり良くなかったことでも知られているので「不良でも陳平クラスならOK」ということでしょう。陳平クラスってハードル高いような……

 

 

中国に関わらず、世の中には埋もれていった才人が多くいます。

社会や企業なんぞは能力重視などと喧伝しますが、そんなものは大嘘です。

外国ならいざ知らず、この国は能力よりも年齢を重視するからです。

自分より劣っている人間でも、年上である限り頭を垂れ、気を使わなければならないのです。

確かにある程度の礼節は必要ですが、年上というだけで何がそんなに偉いのでしょうか。

実力があり、何らかの役職に就いているのならば、礼節を持って支えるのが普通なのでしょうが、ただ若いというだけで侮られる。

どんな人間であっても、どんな歳であっても敬意を持つ自由がこの国には殆どない。例え実力があっても、年齢という壁が邪魔をする。大変やりづらい。

「君は人の下につくタイプじゃ無いと思う」

じゃあ王様にでもなれってかw

いいなぁ、王様になって美女を囲みたい

などと妄想しながら、今は自由気ままにシナリオを書いている

この生き方しかできない。体に染み込んじゃってるんだね

 

 

 

心理検査

気付けば、6月……もう夏やんけ!

なんだか時が経つのが早く感じます……

 

昨日、この前受けた心理検査の所見を聞きに外来へ。

主治医の先生が変わってしまったので、検査が色々あったりするのよね。前の医師と方針とか考え方は違うけど、医療方針としてはゼロからのスタートではない。しかし新しい主治医との人間関係は0から築いていかなくちゃいけない。実際、前の先生とは5年ぐらいお世話になってるから、そこまでいくと顔色一つでどんな状態か分かってしまうらしい(その人がベテランの医師っていうのもあるけど)。

個人的にいい医者ほど、治療より信頼を第一をする人が多い気がする。信頼関係が出来てなければ、治療計画が上手く進まないことをよく知っているからだ。その日だけの当番医や雇われの外来医なんかは、長く付き合う必要が無いので非常に業務的。捌かなきゃいけない人がたくさんいるから。

しかし一生お世話になるかもしれない主治医やよく通う開業医なんかは、まず患者の信頼を第一に考える。内科系――特に小児科や精神科はその傾向が強い気がする。

今の先生は悪い人じゃないんだけど、まだ業務的な感じがする。若い先生だから、臨床経験の差なのかもしれないけど。医者は患者を診るのが仕事だが、それ以上に患者は医者のことを見ている。性格・口調・顔つき・雰囲気……患者は問診の中で医者のあらゆる部分を見ているし、患者自身ドクターショッピングにならない様、観察し駆け引きすることを覚える必要がある。

話がだいぶ逸れてしまったが、心理検査の結果は特に問題なし。強いて言うなら、言語性優位で一つのことに没頭しやすい傾向にあるぐらい。そんな事自分が一番よく知っとるわ!(心の叫び

ちなみに今度は職業適性の心理検査をやる予定。ネットでやるようなやつじゃなくて、病院で臨床心理士が担当するガチのやつ。ちなみに主治医は検査入院で状態を精査したいらしい。ぶっとばすぞ。

 

 

暗中模索

最近、500円で買った戦国BASARA4にハマっています。

中古品だけど、500円で遊び応えは十分なのでよい暇潰しになっています。

この一か月で漫画とかも買い漁ってしまい、部屋中が漫画だらけ。

本棚にスペースが無いのを知っているのに、ついつい買ってしまうんですよね。中古でも何でも。新しい本棚買おうかな……(でも本棚を置くスペースも無い)

 

紆余曲折あって、「お前アニメ向いてんじゃね? アニメ書いてみたら?」という結果に落ち着いたので、師匠にアニメ脚本のプロットを見せたところ「アニメのことはよく分からん!」と言われ、その筋の大御所を紹介していただくというたらい回しっぷり。ただ、アニメの先生を紹介していただいたのはホントに感謝です。(向こうも今が耐え時って言ってたし)

それで、アニメの先生にプロットを見ていただき、シナリオを書くことをになったのですが……まぁ当然筆が進むことは無く、戦国BASARAで遊んだりして、ファーストシーンをずっと考えてます。

ちょっとお話に風呂敷を広げすぎたのか、プロット上のストーリー展開では尺に収まりきらないので、話を少し切り取って編集しなければなりません。その場合、ファーストシーン――話の始発点をどこに据えるのかで、エンドシーンまでの流れが大体決まります。ですから、ファーストシーンというのはシナリオを書く上での心臓とも言えるのかもしれません。

僕の場合、ファーストとエンドが決まらないと書かない(書けない)主義なので、〆切ギリギリになってもファーストシーンが浮かばなければ、本当に書かない。逆にファーストが決まれば一気に書き上げるので、とにかくファーストシーンに重点を置くタイプの人なのだと思います。

 

現在も、どこから話をスタートさせようか苦悩中。

エンドはもう決まっているので、どのファーストシーンが最善手なのか悩みまくり。だったらとりあえず書けと思うかもしれませんが、書いてもボツになるのことは必定なので、プロットと睨めっこが続いています。数式を解いてる感覚に近いやつです。

〆切まで時間はあるので、戦国BASARAでもしながらじっくり考えます。

 

 

花神

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4月になり、桜が美しい季節となった。(今となっては散り桜ですが……)

中国では花咲か爺さんのこと「花神」と呼ぶらしい。

東京の桜の開花宣言は九段下にある靖国神社の桜が基準となっている。

その靖国神社に一人の銅像が立っている。村田臓六こと大村益次郎である。

そう、変な縁ではあるが桜の名所に大村益次郎の像が立てられているのは大変面白い。司馬遼太郎の小説「花神」の主人公はなんと大村その人。

小説の中で彼は「明治という時代を作るための花咲か爺さん――花神だったのかもしれない」という言葉で評され締めくくられている。

志半ばで生涯を終えた益次郎であったが、その後は自らが建設に奔走したという靖国神社で美しい桜の木々と日本の未来を見据えている。本当の意味で彼は桜という花を咲かす「花神」となったのは偶然であろうか。

 

 

前説で話した通り、大村益次郎(村田臓六)は司馬遼太郎の小説「花神」が世に出るまで、有名な人物ではなかった(維新十傑の一人なんだけど)。

僕が初めて彼の事を知ったときは「元々医者のくせに何をどうしたら三兵戦術なんか編み出せるんや」と驚きを超えて呆れかえってしまった。さらに大村の凄いところは、独自に三兵戦術を開発したところであって、西洋諸国の使う用兵術とは少し異なる。新政府軍の主力は三兵(歩兵・騎兵・砲兵)ではないので、大村の開発した用兵術というのは「三兵戦術に似た何か」と言った方が正しい。だから僕はいつも大村式三兵戦術と呼んで、西洋や平地戦闘における一般的な三兵戦術と区別している。

しかしながら、戦術や戦史を研究する上で大村の軍事的才能や戦闘術などは感嘆に値するものがあり、吉田松陰は兵学者であるが、大村は村医者である。そんな彼が兵学の心得が無かったところからスタートして戊辰戦争を終結させたというのはある種の奇跡ではないかと思っている。大村益次郎の存在なしに、長州藩の存続、江戸城無血開城戊辰戦争の勝利、そして明治という新しい時代を迎えることは出来なかっただろう。幕末という時代に登場し、役目を終えて生涯を閉じるという潔さを「花神」と評したのは、中々のセンスである。

僕もそんな「花神」になりたいものである(笑

 

 

大村益次郎は軍事だけではなく、様々な才能に満ちた人物だった。ざっくり言うと守備範囲が広く、請け負った仕事は可能であるなら確実にやり遂げる合理性を持ち合わせていた。

僕もそんな大村の多才さや実務能力に憧れ、どんなジャンルのシナリオも書けるように修練を重ねてきた。おかげで頼まれれば、大体のジャンルのものは書けるようになり、原稿を落とすことも殆どなくなった。

この前、師匠と話し合い、僕の考えるシナリオの形を語ったところ、師匠は渋い顔で「気持ちは分かるが難しいだろう」と語った。僕のシナリオについて言及し「乖離してるものを強引にかけ合わせている感がある」と、もうすこし腰を据えて理想形を探って見ろという助言をいただいた。

大村のように幅広く、そしてシナリオに対して挑戦していくスタンスを取っていたが、師匠の言う通りここはいったん舵を切り、じっくりと得意な分野を極めてから理想形を探るというのも一つの道なのかもしれない。

 

大村先生ならどうしただろうか。

……そんなこと考えても仕方ないのは分かっているが。

 

 

1560年(永禄3年)尾張の地に奇跡が起きる。その奇跡はやがて一人の青年を天下人ならしめ、そして一つの時代を創る。

しかし奇跡といってもはっきり言ってしまえば「タイミングが良かった」の一言であり、その青年の凄まじいところは大一番の大戦で「雨」を降らす生来の雨男であるにもかかわらず、姉川や長篠の合戦では天候に恵まれ勝利を収めるなど、まさに天に選ばれた男であった。

しかしそんな男も人には選ばれることは無く、多くの離反が続く中、最も信頼していた家臣によってこの世を去る。享年49。人間50年とはよくいったものである。

 

今日はそんな信長の話ではなく……

江戸東京博物館ダ・ヴィンチ展に行ってきました。

2,3月辺りから展示の事は知っていたのですが、4月までやってるから別にいっかーみたいな感じで先送りにしていたら、ダ・ヴィンチ見た友人から「めちゃくちゃ混んでるから覚悟しろ」みたいなこと言われたので半ばあきらめていたのですが、今週で展示が終わると知り玉砕覚悟で江戸博に突撃を決意(混んでると言っても入れない訳ではないので)。

しかし、鉄砲玉になるつもりはないので雑であるが作戦を立てる。この時期なら朝一番に入れば混雑も少ないだろうと予想し、いつもより早起きすると……なんと雨が降っとるではないですか! その時私は勝利を確信し、織田信長桶狭間で今川を破った話を思い出して、例の前置きに繋がるんですね。

「時期・時間・雨」の三要素が揃った結果、案の定展示はまだ空いていて、ゆったりとダヴィンチ展を楽しむことが出来ました。

個人的にはやはり雨が一番大きいと思います。ジーンズの裾が散り桜で濡れてしまいましたが、そんなことはどうでもいいです。科学的芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチの作品や思索に触れることの方が意義があるのだから。

これからも面白い展示が続くので、今年は美術・博物館めぐりに精が出そうです

 

 

天才の理論

天才に決まった「理論」というものは存在しない。

仮に天才の理論があったとするならば、彼の考えていること――思考そのものが理論であり、それを凡人が聞いてやはり理解できるはずもないのだ。

今時分これを書いているとき、僕は憤っているが、同時に心地よい気もした。

なぜなら人々から全く理解されずに、才能すら侮辱された。

その時は「どうして分かってくれないのだろう」と悩んだが、上記のことを考えたら割とさっぱりと開き直ることが出来た。

そうか、周りが皆凡人だから理解できないのか。

普通の人が持ちうる「理論」を飛び越えてしまったから理解できないのか。

そもそも理解されようと迎合することが変に自分を悩ますのかと。

だから僕は天才になることにした。実際そうかは置いといて。

そういう風に開き直ることで「自分は異質」なのだというアイデンティティを得ることができる。これは前に進むという意味では大きな力だ。

 

どうして周りと強調する必要がある?

なぜ他者と共感しなければいけない?

どうして自分の魂に嘘をつくのか?

 

実行すれば、確実に孤独になる。一人ぼっちになる。

しかし自分の才能を潰したくなければ孤独の中で生きなければならない。

一般群衆の中で天才は生まれないからである。

これから天才になろうとしているキミへ

自分は天才だと思っている人々へ

これだけは伝えておきたい

真に天才なる人は世人から評価されないのだと。

他者の評価など所詮、結果論でしかない。俗人は結果しか見えないのだ。

評価が欲しいのなら、律儀に生きている方が賢明である。

だから思うがままにやってみるといい。

それが羽ばたくための第一歩だ。

 

 

 

最後の教え

今週のお題「卒業」

らしいので、まぁちょっとそれっぽい事を書いてみる。

3年ほど前になるか、僕は家庭教師のアルバイトをしていた事があって、初めて所謂「教え子」というものを得た。

そのご家庭からは「作文の書き方」と「国語」を教えてほしいと頼まれた。教え子は小学四年生のかわいい男の子で瞳のくっきりとしたサッカー少年だった。お母さんから話を聞くに漢字が苦手だったり、文章を書くのを避ける傾向にあるというので、本格的に勉強を教える前に、その子の分析から入り、独自のカリキュラムを組むことにした。同時に中学・高校で使うことも考え、今のうちに電子辞書を用意してもらった。実際その電子辞書が教えることにあたって大いに役に立った。

おかげで教材探しに本屋を回ったり、自ら教科書となるもとのを策定するなど忙しくなってしまったが、おかげで教えることに難儀するということは殆どなかった。ただその子が突然B型インフルエンザにかかってしまい、僕が一日看病する一幕もあったが。

話は少し戻るが、僕の仕事は「作文と国語を教える」ことだった。その時の僕はちょうど師匠の門下生としてシナリオの勉強を始めたころで、作文――というより文章の書き方を教えるにあたっては、シナリオの書き方を参考にして、少量の文章を多く書かせ、いかに作文であっても展開と構成があるということを小4の内から徹底して教えた。(高校の時に小論文を塾で習っていたというのも幸いだった)

その甲斐あってか、2週間ほどで2枚書くのが精いっぱいだった少年が、原稿用紙5,6枚も書けるようになり、彼の文章アレルギーみたいなものは多少良くなった。しかし、文章というのは書くに適切な分量がある。次に僕は仕上げとして、5~6枚の作文を3~4枚に削る様に教えた。無駄な話題を削ることで内容をわかりやすくする、文章(シナリオ)を書く上での技法の1つである。

この「文章を削る」という作業は少年も相当苦労したそうで、僕もその作業はあまり得意ではなかったので、一緒に考え、話し合い、どこが余計な部分なのか探す授業が続いた。授業の中でその子にもコツみたいなものが分かったらしく、作文も3.5枚程度の分かりやすい内容に仕上がってくるようになった。

結果、その子は夏休みの読書感想文で地元の文集に載ることが決まり、作文を教えるという目的は達成された。その後もご家庭の意向でもう1年ほど教えることになったが、その子が小学5年生くらいになったあたりに辞めさせていただいた。教えることが無くなったというのが大きな理由だった。

 

あれからかれこれ、3年ほど経っただろうか。突然、彼から連絡がきて「受験で私立の一貫校に合格した!」と吉報を受けた。「おめでとう」という言葉の前に、彼はもう中学生なのかという時間の流れを感じた。それでもめでたいことに変わりはない。

僕は少しばかりではあるが、進学・合格祝いを彼に渡しに行った。久々に会った少年は背丈が大分伸びてお母さんと同じくらいになっていた。成長期だなぁと感じたし、やや大人びて凛々しくもなった。

少しだけ彼と話す時間を頂いた。小学校を卒業して、知らない学校に進学する不安感、勉強についていけるかなど、わりと色んなことを相談されたので「受験も頑張れたのだから、これからだって頑張れる」みたいなことを言って、元気でいればそれが最上であると答えた。最後に彼はサッカー少年だったので、こんな話もした「技術は努力でなんとかなる、体躯は工夫で長所に変わる、最後に勝敗を決めるのは心の強さだ」と。ある漫画の台詞の引用だが、気に入っているので使わせてもらった。精神論と思われるかもしれないが、はやり最後に勝つのは挫けても立ち上がる不屈の心なのだと教えた。

これが僕が彼に授けた最後の教えとなった。