心の墓場

ここは言葉の掃き溜め、墓地のような場所。                      愚痴が中心ですので苦手な方はお笑いでも見ててください。

新しい景色

フリーな立場になって、3か月ぐらいになっただろうか。

僕がゼミを離脱したぐらいに、親交のある同期のFさんも抜けたみたいで違う方向性で活動していくとのことだ(正確には持ち込み)。僕自身、コンクールってやつを信用してなくて、作品の完成度を測る指針として活用してきた。しかし、そのゼミを抜けた方はコンクールの受賞歴もあるし、最終選考の常連。そんな実力者でもお仕事を貰うことはできていないようで、業を煮やしたのか原稿(プロット・企画)をコンクールではなく制作会社などに持ち込む方向にしたそうだ。とある有名な脚本家さんとお話していた時、「脚本家になる一番の近道は制作会社に入るか、直接売り込むかのどっちか。あとはコネだね」とド直球に言われてしまった。それ以来、僕はコンクールというものを信用していない。受賞してもそれがお仕事に直結する訳ではないし、脚本家の大半はコネであるという現実があるからだ。個人的には名前を覚えてもらえれば幸い程度の気持ちがちょうどいいと思う。

 

フリーになって活動に含みができたので、僕もFさんのように制作会社や出版社に積極的に売り込みたいと考えている。もちろんコンクールなどを定期的な目標にしながらであるが。師匠の言う通り、既成の概念(正攻法)で作家になることは甚だ難しい。この前、3年ぶりに短篇の小説を書いた。一応、コンクールに出したのだが、5年間師匠から教わったことが生きた作品のようで、稚拙であるが、5年間勉強したことは無駄では無いのだなと実感した。師匠への感謝と同時に、その小説で僕は新しい景色を見た。

 

 

 

昔話

大学入学と同時に脚本学校(以下:スクール)に入った。

それまでは小説家になりたくて、いくつかの小説を書いたが点でダメだった。当時の僕は単なる文学青年かぶれで、自分の物語を文章にするだけの人間に過ぎなった。しかし、スクールで授業を受けるようになってからは、『自分の物語を面白く描かねばならない』と口を酸っぱく教わった。とにかく、見てもらっている人、聞いてもらっている人に受け入れられなければ意味がない。そこで初めて、小説ではなく脚本(シナリオ)の方へ転向することを決めた。小説だとどうしても、内向的になってしまう。でもシナリオは描き方や構図などがおおよそ決まっていてやりやすい。それに小説より金になる。そこから僕は近所のレンタルDVDショップで映画やドラマを鑑賞しまくる日々が続いた。まだ見てない名作はあると思うがあらかたの作品は見たんではないだろうか。高校時代に読書狂(純文学)だったのに似ている気がする。

カリキュラムは半年で講義は月8回(週2)ほど。50回ぐらい授業があったと思う。中には有名な脚本家さんが来てくれるときもあって、当時は18歳だったこともあってか「頑張れ若者!」みたいによく励ましていただいた。そんな応援もあり、僕はスクールの授業を無事修了。全講義の1/3は出席しないと修了証をもらえないので、最初は埋まっていた講義室も最後の修了式には半分以下になっていた。

修了生はそれからどうなるかというと、任意で自分のジャンルにあったゼミに入って再びシナリオの勉強へと移る。そこで僕は師匠と出会った(というより曜日の関係で師匠のゼミに入っただけなんだけど)。師匠のゼミは実戦よりも基礎を重視するタイプのところで、基本的にノンジャンルでシナリオを研究する部門。創作と批評が授業の柱だった。

僕がゼミに入ったときはまだ未成年で、最年少受講生だった。分からないこともたくさんあったから、ひどいプロットを提出した日にはさらし者にされて、よく教材にされた。ゼミの人たちもよく喋るもんだから、授業から脱線することも多かった。でも、僕はそんな騒々しく議論の絶えない居場所が好きだった。

しかし時が経つにつれ、ゼミにも新しい人が入ってくる。逆に家庭や仕事の都合で辞める人もいる。当然、雰囲気も徐々に変わっていく。それでも僕が最年少受講生であることには変わりなくて、年上の後輩みたいな人たちが毎年増えていくのだ。別にそのことについては、まったく気にしていないし、むしろ大歓迎。だが問題だったのは、僕が書いているシナリオの性質とゼミの性質が歪み始めてきたということだった。

僕はよくコメディを書く。それがどんな形であれ、クスッと笑えるものにする。それが信条だった。ショートシナリオの課題が出たので、みんなが絶対に書かないであろう『特撮もの』を書いてみた。僕自身初めて書いてみたが、意外と気に入っている(今でも)。しかし、評判は当然芳しいものではなかった。シナリオとしての批評なら当然受け止めるが、「なんで特撮なの?」みたいな、あたかも特撮作品とテレビドラマを比較するような意見が多かったため、そこで自分の中の理想みたいなものが一気に崩れ去った。「ああ、ここじゃないんだな」と。すでにゼミは気付かぬうちに現実的ドラマ作品を良いとする風潮になっていた。テレビ局が好きそうな作品ばかりでつまらないとさえ感じた(それでもちゃんと批評はするよ)。

そういった作品につまらなさを感じていた僕は一貫してコメディ作品を書き続けていたが、ずっと指導してくれた師匠が根を上げてしまったので、さすがに限界を感じた。師匠はゼミに入ったときからずっと僕を見てくれた。おそらく誰よりも長所と短所、作風を知っている。だから、素直に様々なことを話してくれたのだと思う。師匠にはいつかご恩返しをしたいものだ。

 

もう秋になった。そろそろ何かしらの区切りをつける頃なのかもしれない。

でも、諦めるとは言ってない。

なんとかして形にしてみたい。

創造の始まりは無。そこからあがいてようやく何かが見えてくる。

18歳の自分がそうだったように。

 

シン・ゴジラ

彼岸なので、家族でお墓参りに。

その後、なぜか恒例行事と化している鰻を食し(墓前で手を合わせる=鰻を食う)、伯父さんと話題のシン・ゴジラを観にいきました!

師匠からもメールで「シン・ゴジラ面白かったよ。まんまエヴァだったけど」と来ていたので、いい機会だなぁと思い一家男たちで鑑賞。

耳に伝わる前評判がよかっただけに、どんなゴジラに(とういうよりも怪獣映画に)仕上がっているのかなぁと気になってなっていたんですよねぇ。庵野秀明×樋口真嗣のコンビですから「ゴジラ」というキーワードをどう解釈した作品なのかと。

そんでもって蓋を開けてみると……想像以上にエヴァでした。

師匠の言う通り、確かに面白いんですけど物語の構図が新劇エヴァ序と同じなんですよね。対ゴジラ班による作戦会議なんてまさにヤシマ作戦。同じBGM流れてたし(音楽はエヴァと同じ鷺巣詩郎さんです)。ファンサービスなのか、開き直っているのかは分かりませんが、マジでこのノリで作っているとすると庵野さんはもうエヴァンゲリオンみたいな話しか作れない人なのかなぁと思ってしまうわけです。エヴァが放送されてもう結構経ちますが、未だに日本のアニメや漫画(今回のシン・ゴジラも含めて)は新世紀エヴァンゲリオンという作品を超えられない、その向こう側へ到達できてないのだなと痛感させられました。「ゴジラ」を観にいったら中身は「エヴァ」だったわけですから(笑)

ただ、何も考えないで単純な娯楽映画、怪獣特撮映画としてはとても楽しめる作品だと思います。ゴジラなんだからもっとハチャメチャでもいいかなぁとも思いましたが(笑)

 

 

しかしながら個人的に思う所があって、それは『上層の出来事でしか話が展開しないこと』です。ざっくりいうと、ゴジラによって被害に遭った人たちに目線が殆ど行ってないんですよね。ゴジラの足元では凄まじい人たちが被害を被って苦しみの淵に立っているはずなんです。実際、シン・ゴジラでは人が死ぬシーンが殆どありません(匂わす描写はいくつか)。なぜなら物語そのものが役人対ゴジラという上層での対立構図になっているからです。たしかに、政府の官僚や自衛隊ゴジラをなんとかしなければなりませんが、同時に苦しむ国民を救助しなければいけません。核や放射線という前に、下層(ゴジラの足元)にいる一般市民にとってはゴジラは恐怖でしかないはずです。そういったところにどうして目が向かないのかと疑問を感じるわけです。そこで僕は、シンゴジをやたら持ちあげる人や何回も観た!とかいう人は上層の出来事――上辺だけの物語に満足してしまっているんだなと思ってしまうんです。(凄い偏見と見下し)

確かにシン・ゴジラは面白いです。でも薄っぺらい。しかしそれでも評価する人がいる。大切なのは政府の動きが云々ではなくて、ゴジラがいる中での人々のドラマだと僕は思います。

 

 

テイルズ オブ ベルセリア

少し前にPS4を買ったという話から。

新作のテイルズを購入して、今しがたクリアしました。僕は結構寄り道しちゃう方なのでクリアまでに70時間くらいかかってしまいました。他の方(ネットなど)の情報を見ると平均50時間くらいでメインストーリーはクリア出来る分量になっているようです。(どんだけまったりプレイなんだ……)

最近のテイルズからは遠ざかっていたのですが、シリーズ初の単独女性主人公でCVはなんと佐藤利奈さん。――これは買うしかねぇ!ということでサトリナ大好き大万歳な状態で久々にテイルズをプレイ(たぶんグレイセス以来)。したらね、意外にこれが楽しいのよ。新しい?戦闘システムがけっこう爽快でゲーム初心者でも楽しめる親切設計。でも物語(ストーリー)が結構重いので、テイルズシリーズとしてはあまり人に勧め辛い作品になってしまっていることが個人的に一番の弱点かなぁと感じました。ただゲームシステム(特に戦闘)は奥深く進化しているので、プレイして損のない作品だと思います。

 

 

た だ し 、まぁこれは職業病?みたいなもんなんで気にしなくてもいいと思うんですけど、いかんせんプレイしていてシナリオの展開が気になってしまうんですよね。僕はゲームシナリオは専門ではないのであまり強いことは言えないんだけど、まずキャラクターの役割が不明瞭。システム(戦闘)においては役割分担はあるんでしょうけど、物語中においては仲間が主人公にどのような影響を与えるのかをもう少し強調してもよかったかなと。

物語終盤になるとキャラたちのサブイベント(サブストーリー)ができるようになるのですが、むしろそれをメインストーリーに絡めるべきだろ!と思わずツッコんでしまいました。ベルベット(主人公)の話を追うだけでは寂しい気もするので仲間たちの人物背景が明らかになっていく進行の方が事件や物事に対して納得できる構成になるのかなぁと思いました。ただゲームシステムとの兼ね合いもありますので、単純なシナリオ論だけでは難しい課題でしょうね。

ただどう考えても、後日談で人物背景を明らかにするのは厳しいよね……

 

ゲームが一区切りついたので、原稿に勤しみます

誰かアイデアをくれ

 

総火演に行ってきたよ!

毎年恒例のすさまじい抽選倍率をくぐり抜け、チケットを入手したので

8/28に行われた陸上自衛隊総合火力演習を見てきました!

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えーっとまぁ、書きたいことも色々あるので先に結論から。

二度と行きたくないと思いました。

(毎回行くようなもんでもないと思いますが)

さすがは、火力演習だけあって迫力満点なのですが、それ以外の部分は雑です。演習場から外のことに関しては全く考えてないってぐらいの雑さで、帰り際の人たちの誘導すらまともに出来てません。最初から最後までの包括的な演習なのだとしたら作戦は失敗。総火演担当の指揮官及びその参謀に対して左遷人事をだしてますね、僕なら。

それぐらい今回の総火演で僕の陸上自衛隊への心証は最悪です。

見る分にはいいですけど、現地は地獄なので「総火演に行きたい!」という方はそれなりの覚悟でご来場ください。(人によってはコミケの方が全然マシです)

 

以下写真。(携帯で撮ったのであんまり鮮明じゃありません。ご容赦を)

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陛下の生前退位(譲位)ついて考えてみた

衝撃である。

帝が御身心を国民に伝えることは何度かあったが、なにより驚いたのはその内容である。「お気持ち」というレベルを超えて「お怒り」のように思えた。

しかし現行の天皇陛下及びそのご皇室は憲法と皇室法である皇室典範によって地位と行動が規定されているので、陛下のご意向にすぐさま対応することが出来ない仕組みになっている。しかも皇室は行政府と乖離しながらも政治影響力を持っているため、この『生前退位』問題というのは皇室全体の問題でもあるのだ。

 

とりあえず今回は、譲位(今上帝が存命中の内に皇太子に皇位を譲ること)について焦点を絞ってみる。

天皇制の歴史の中で、譲位というのは珍しい事ではなく日本史の授業でもやったように譲位した天皇――太上天皇上皇)が権勢を握った『平安院政期』が代表的なものといえるだろう。

しかし、明治になって帝国憲法が発布されると天皇や皇族の地位と権能は明確に規定され、二次大戦敗戦後に作られた日本国憲法でも国民を主権としながら天皇の地位は「日本国統合の象徴」として一定の機能を果たしている。しかしそういった、エセ立憲君主制度が今回の「お気持ち」につながったのだろうと自分は考えている。(敗戦国なのに天皇制を存続させてもらったので文句は言えないが)

現在今上帝は80を超え、なお公務をこなすスーパー爺さん(不敬)なのだが、天皇だって不死身じゃないし、体力も衰える。存命中に譲位というのはさすがに現実味がない。恐らく陛下は《公務不履行》の最終手段として『譲位』を示唆したのだと思うし、出来ればその前例まで残したいのだろう。幸い皇太子殿下は元気なので。しかし、その道のりは国民が許しても法律が中々許してくれない。

今上帝が譲位について突破すべき最大の問題は法律である。

1つは憲法上の問題。2つは皇室典範(皇室法)の改正である。

他にも色々あるが、一番正当な手続きとしてはまず日本国憲法第一章「天皇」を改正することである。憲法を改正しておけばそれに連なる皇室典範の改正もスムーズに行うことが出来るが、草案を国会で審議し、それを承認し、国民投票まで行わなくてはいけない。正当だがあまりにも時間がかかりすぎるのだ。

しかし、立法には特例法というのがあり、それによって皇室典範を改正するという手もある。憲法に規定された「天皇」条項は解釈問題とし、実際に皇室全体を規定している皇室典範を改正し譲位を可能にするというのが現実的ではないかと考えている。実際どうなるかは不透明だが。

 

今回の今上帝の「お気持ち」は譲位のことだけではなく、これからの皇室・天皇の在り方。そして国民へのご配慮が感じられた。藤原家の血脈を汲む者としては、天皇制はこれからも時代を変えながらも続いてほしいと思っている。今は小市民だが、心の中では帝の一臣下として、帝の体調と国体を案じている。

 

この生き方しかできないから

「出奔する。ここに私の居場所はない」

人生一度は言ってみたい台詞である。

漢の高祖劉邦を支えた参謀、陳平は類稀なる智謀を持ち合わせながら劉邦と出会うまで主君に恵まれませんでした。しかし、あまりにも智謀に優れていたため主君である劉邦に生涯警戒されることに。しかし陳平は自分の才を用いてくれた劉邦に恩義を感じ、警戒されていることを知りつつも漢の忠臣であり続けました。劉邦の危機には奇策で命を救うなど、彼の天下統一に貢献しました。

楚漢戦争に勝利した劉邦は高祖として「漢」王朝を建国する。高祖が没し、外戚である呂氏による功臣の粛清や一族による独裁政権が始まっていくと、功臣たちは陳平を頼るようになります。陳平は表では呂氏に協力的なフリをして、水面下で政権を取り戻す謀をめぐらせていました。陳平は生き残りの功臣たちと一斉にクーデターを起こし、呂氏一族を粛清。新しい皇帝(文帝)を即位させ、漢が呂氏のものになるのを阻止しました。

陳平という男がいなかったら中国の歴史は大きく変わっていたかもしません。

漢の末期、曹操は人材登用のキャッチコピーに「今世の陳平求む!」みたいなことを使っていたそうです。陳平は素行があまり良くなかったことでも知られているので「不良でも陳平クラスならOK」ということでしょう。陳平クラスってハードル高いような……

 

 

中国に関わらず、世の中には埋もれていった才人が多くいます。

社会や企業なんぞは能力重視などと喧伝しますが、そんなものは大嘘です。

外国ならいざ知らず、この国は能力よりも年齢を重視するからです。

自分より劣っている人間でも、年上である限り頭を垂れ、気を使わなければならないのです。

確かにある程度の礼節は必要ですが、年上というだけで何がそんなに偉いのでしょうか。

実力があり、何らかの役職に就いているのならば、礼節を持って支えるのが普通なのでしょうが、ただ若いというだけで侮られる。

どんな人間であっても、どんな歳であっても敬意を持つ自由がこの国には殆どない。例え実力があっても、年齢という壁が邪魔をする。大変やりづらい。

「君は人の下につくタイプじゃ無いと思う」

じゃあ王様にでもなれってかw

いいなぁ、王様になって美女を囲みたい

などと妄想しながら、今は自由気ままにシナリオを書いている

この生き方しかできない。体に染み込んじゃってるんだね