心の墓場

ここは言葉の掃き溜め、墓地のような場所。                      愚痴が中心ですので苦手な方はお笑いでも見ててください。

高畑勲展 ~アニメは誰のものなのか~

この前、竹橋の国立近代美術館で開催中の「高畑勲展」を観に行ってきました。有名なアニメ作品の展示ばかりだったので、いつもの展示より親近感があって楽しめたような気がします(ハイジとか赤毛のアンとかね)。

日本アニメの創成期からアニメ表現(演出)に携わってきた高畑さんなんですが、正直なことを言うと個人的には高畑さんの作品って好きじゃないんですよね。好きになれないというか。良くて「平成狸合戦ぽんぽこ」と「おもひでぽろぽろ」の2つかな。

いつみても味気ないから「面白い」と感じない。その点、宮崎駿のアニメは分かりやすいぐらいアニメ的な面白さを提供している。高畑勲最後の作品「かぐや姫の物語」も劇場で観たけどびっくりするほどつまらなかった。でもアニメーションとしてはその当時の最高峰の出来で、そこだけは「さすが高畑勲」と認めざるを得なかった。

高畑作品のすごいところは制作時期ごとに、表現を変えてるんだけれど、当時トップレベルのアニメーションを完成させているところだ。誰が見てくれるとか関係ない。一度決めたテーマにどこまで近づけるか、それだけ。妥協せずとにかく考えるアニメ演出家、それが高畑勲なのである。

しかしそれには副作用も伴った。妥協を許さない姿勢が周囲をすり減らし、同じジブリのアニメーター近藤喜文はそのせいか47歳の若さでこの世を去ってしまう。称賛されるべき点も当然あるが、私個人としては高畑勲は(アニメの)鬼だと思っている。彼のおかげでジブリは多くの名作を残したが、その制作手法によって後継者不在となり、今は版権管理会社になってしまった。結局、作品は残しても、人物を残すことをしなかったというのが高畑最大の欠点だと私は思う(ただその点では宮崎駿も同じかもしれない)。

一方で高畑は常に作品を通じて「問いかけ」をしていたように感じる。それは「このアニメは誰のものであるか」という問いだ。高畑は子供向けから大人向けまで幅広く作品を作ってきたが、アニメは誰が見るという考えを想定していないように思える。今となってはたくさんのアニメが放映されているが、その大体がオタクと呼ばれる人たちのために作られている。オタクが作ったアニメーションをオタクが消費する時代。果たしてそれだけでいいんだろうか。高畑勲だったらどう表現するだろうか。

「アニメは誰のものなのか」を考えさせる高畑勲展だった。

 

 

【写真】

堅苦しい文章で疲れましたよね。 休憩がてらハイジのジオラマをどぞ。