心の墓場

ここは言葉の掃き溜め、墓地のような場所。                      愚痴が中心ですので苦手な方はお笑いでも見ててください。

出雲と大和

 

世間では新型コロナウイルスが猛威を振るっておりますが、ウイルスに負けないよう強く日々を過ごしております。今のところ自分の周りが劇的に変わったということはありませんが、一歩外に出てみると少し違和感がある。

この前トーハクの特別展「出雲と大和」を見に久々に上野へ行くと、びっくりするほど静かだ。恐らく来日する予定だった観光客がいないせいだろう。いつもの盛り上がりというものが感じられない。だが皮肉にもこの静けさが本来の姿とも言える。個人的には静かな方が好都合なのだが、人が訪れないというのもなんだか寂しい。一刻も早い収束を願うのみだ。

 

出雲地方というのは原始日本(というより神話の時代)を語る上では重要な土地である。最近では荒神谷遺跡や岩倉遺跡などから多くの青銅器が発掘され、独自の勢力を築いていたことが分かりつつある。

上の図の様に、当時(日本において)最先端の祭具であった銅鐸もこのように並べて埋めてあり、どうしてこのように埋めたのかはよく分かっていない。

そもそも銅鐸・銅剣・銅矛といった類の青銅器が出雲では大量に出土されていることを考えれば、同時代において出雲地方(島根・鳥取あたりも含め)はかなり特殊な土地であったことが窺い知れる。

今回の展示ではそういった国宝級の遺物がここぞとばかりに集結していた。ドータクンに囲まれてる感じです)教科書に載っているような有名な銅鐸(国宝)もあるので、一見の価値はあると思う。

 

大和ゾーンに進むと時代が一気に進む。ここまでくるとギリギリ日本史といっていいのかもしれない。便宜上ここでは「大和時代」と呼ぶことにするが、一番のポイントは「ヤマト政権(ヤマト朝廷)」と呼ばれる、豪族たちによる連合王国を作ったことである。展示されていた有名な「七支刀」などからも、中国や朝鮮の国々とも交流があったことが分かっている。

しかし面白いのは、ヤマト政権がいかにして誕生したかである。政権の中心となった豪族はある程度分かって来たものの、なぜ大和(畿内)なのかというシンプルな問いを解明できていないのだ。委の奴国ー邪馬台国ー大和政権と授業では習うだろうが、この三つに歴史的なつながりは今のところ見られない。少なくとも邪馬台国から大和政権へと続く空白の200年が古代日本にはある。

確たる物証はないが、様々なイメージ(推測)が後を絶たない。学者たちは必死こいて証拠を見つけたいところだろうが、自分のような素人は分からないままでも良いと思っている節がある。だって分かってしまったら古代の未知というロマンが無くなってしまうでしょ。解明されて欲しいと思う反面、永遠の謎にしておこうよという心理が歴史ファンにはあるはずだ。

 

古代日本、日本の始まりを考えるという意味では「出雲と大和」という展示は素晴らしかったと思う。ちなみに次は江戸博の江戸ものづくり列伝に行く予定です。(ブログに載せるかは未定)

 

【おまけ】

法隆寺金堂壁画

消失したとされる法隆寺の金堂壁画。写真のは本物ではありませんが、それでも立派なもんだなぁとじっくり眺めてしまいました。法隆寺には昔行ったことがありますが、あそこはほんと宝物の塊みたいな場所ですねぇ。聖徳太子の仏法を尊ぶ気持ちは令和の時代にも息づいています。