心の墓場

ここは言葉の掃き溜め、墓地のような場所。                      愚痴が中心ですので苦手な方はお笑いでも見ててください。

最後の教え

今週のお題「卒業」

らしいので、まぁちょっとそれっぽい事を書いてみる。

3年ほど前になるか、僕は家庭教師のアルバイトをしていた事があって、初めて所謂「教え子」というものを得た。

そのご家庭からは「作文の書き方」と「国語」を教えてほしいと頼まれた。教え子は小学四年生のかわいい男の子で瞳のくっきりとしたサッカー少年だった。お母さんから話を聞くに漢字が苦手だったり、文章を書くのを避ける傾向にあるというので、本格的に勉強を教える前に、その子の分析から入り、独自のカリキュラムを組むことにした。同時に中学・高校で使うことも考え、今のうちに電子辞書を用意してもらった。実際その電子辞書が教えることにあたって大いに役に立った。

おかげで教材探しに本屋を回ったり、自ら教科書となるもとのを策定するなど忙しくなってしまったが、おかげで教えることに難儀するということは殆どなかった。ただその子が突然B型インフルエンザにかかってしまい、僕が一日看病する一幕もあったが。

話は少し戻るが、僕の仕事は「作文と国語を教える」ことだった。その時の僕はちょうど師匠の門下生としてシナリオの勉強を始めたころで、作文――というより文章の書き方を教えるにあたっては、シナリオの書き方を参考にして、少量の文章を多く書かせ、いかに作文であっても展開と構成があるということを小4の内から徹底して教えた。(高校の時に小論文を塾で習っていたというのも幸いだった)

その甲斐あってか、2週間ほどで2枚書くのが精いっぱいだった少年が、原稿用紙5,6枚も書けるようになり、彼の文章アレルギーみたいなものは多少良くなった。しかし、文章というのは書くに適切な分量がある。次に僕は仕上げとして、5~6枚の作文を3~4枚に削る様に教えた。無駄な話題を削ることで内容をわかりやすくする、文章(シナリオ)を書く上での技法の1つである。

この「文章を削る」という作業は少年も相当苦労したそうで、僕もその作業はあまり得意ではなかったので、一緒に考え、話し合い、どこが余計な部分なのか探す授業が続いた。授業の中でその子にもコツみたいなものが分かったらしく、作文も3.5枚程度の分かりやすい内容に仕上がってくるようになった。

結果、その子は夏休みの読書感想文で地元の文集に載ることが決まり、作文を教えるという目的は達成された。その後もご家庭の意向でもう1年ほど教えることになったが、その子が小学5年生くらいになったあたりに辞めさせていただいた。教えることが無くなったというのが大きな理由だった。

 

あれからかれこれ、3年ほど経っただろうか。突然、彼から連絡がきて「受験で私立の一貫校に合格した!」と吉報を受けた。「おめでとう」という言葉の前に、彼はもう中学生なのかという時間の流れを感じた。それでもめでたいことに変わりはない。

僕は少しばかりではあるが、進学・合格祝いを彼に渡しに行った。久々に会った少年は背丈が大分伸びてお母さんと同じくらいになっていた。成長期だなぁと感じたし、やや大人びて凛々しくもなった。

少しだけ彼と話す時間を頂いた。小学校を卒業して、知らない学校に進学する不安感、勉強についていけるかなど、わりと色んなことを相談されたので「受験も頑張れたのだから、これからだって頑張れる」みたいなことを言って、元気でいればそれが最上であると答えた。最後に彼はサッカー少年だったので、こんな話もした「技術は努力でなんとかなる、体躯は工夫で長所に変わる、最後に勝敗を決めるのは心の強さだ」と。ある漫画の台詞の引用だが、気に入っているので使わせてもらった。精神論と思われるかもしれないが、はやり最後に勝つのは挫けても立ち上がる不屈の心なのだと教えた。

これが僕が彼に授けた最後の教えとなった。

 

 

 

大切なのは立ち向かうこと

今日は2月29日。

4年に一度来る、珍しい日でもあります。

そんな日、わたくしは某美術大学の卒業制作展に行っておりまして、久々にちょっと遠出をしました(つーても都内ですが……)

まぁどうして美大の卒展に行ったかと言いますと、知り合いが出展してるので来てほしいみたいな事を言われたからなんですよ。その知り合いというのも、十数年ぶりに会うもんだから、名札がないと分からないんですよ(笑

久々にお会いして「今どうしてるの?」みたいな事を聞かれると、それはそれで答え辛い。「大学に居座ってる」なんてあんまり言いたくないし……まぁ正直に答えましたけど。

シナリオのことについても少しですがお話して、今書いてるやつが行き詰ってて辛いだとか、自分は向いてないんじゃないか、みたいな要らん愚痴まで吐いてしまって。そうしたら知り合いの方が「芸術の世界も同じ。創り出すことってもの凄く辛いんだよねぇ」と励ましてくれて、「完成させることも大切だけど、それと同じぐらい挑戦し続けることも大切。キミはたぶん後者なんだろうね」と謎名言を残してくれました。ありがとう先輩。

知り合いの方も卒業制作をするにあたって、担当の教員の指導を受けながらも、結局は自分一人で創造しなければいけない。目標が明確になるまでは辛かったらしく、それでも試行錯誤の連続だったそうです。

結局、創作ってそういうことなんですよね。悩んだり、辛い思いをしたからこそいい作品が生まれる訳で。十数年ぶりに顔も覚えていないような先輩にお会いして、忘れかけていたチャレンジ精神、というより既存の概念に立ち向かう精神を思い出すことができました。

天気はどんよりしていましたが、心はスカッと晴々とした一日でした。

 

二兎を追ってもいいじゃない

最近、シナリオを書いていて気づくようになった

もしかして自分は今までにない考え方でストーリーを書いているのではないのかと。

そういうことを考えると何だか腑に落ちることが多い。

物語には必ず主人公がいる。(というかいなきゃいけない)

しかし、僕の場合この主人公の扱いが特殊らしく

通常ならば人物描写というのは

主人公=主役

であるのが一般的なのに対して、僕の描き方は

主人公≠主役

という思想の下で物語が成り立っている。

 

ほら、もう何言ってるか訳わかんないでしょ

砕いて説明するならば、物語において《主人公=主役》となるべきはずが、主人公と主役を分離させてストーリーを考えている節があるということだ。

ちなみに端から見ると主人公が2人いるように見える。いわゆるダブルキャストというやつだ。そういう作品は結構あるので、珍しいわけではない。しかし日本ではダブルキャストダブルヒロイン的な作品の理解に乏しい面が感じられる。(いわゆるバディ物が減ってきている)

プロットを書くときに、一応「コイツが主人公!」と決めているのだが、いざ書いてみるとダブルキャストダブルヒロイン)的な描写に落ち着いてしまうことが多々ある。

師匠にもよく「誰が主人公なんだ!?」と言われることがあるが、シナリオを書く上で、主人公を明確にする必要があるのだろうか?

「誰かの物語」というのはシナリオの基本中の基本だが、個人的には物語そのものが丸く収まればいいと考えているので、その中の人物なんて手駒以外の何でもない。なら、手駒全体の動きを僕らは書けばいいわけで。

そういった考えが理解されない、通用しないというのなら、僕はこういったことに向いてないのかもしれない。

 

二兎追う者は一兎をも得ずというが、二兎を追ってもいいと思うのだ。

僕はシナリオを書いているというより、シナリオに挑戦しているといった方が正しかったのかもしれない。

 

 

 

目に映るものは大体が演出

広瀬すずちゃんに注目し始めたのは、わりと最近(5年前くらい)で初めて見たときに「なんだこの可愛い子は!」と僕のロリコンセンサーが反応したわけですよ。ちなみにその頃は橋本愛にお熱でした。

その後、彼女はトントン拍子で有名になっていき今や映画やドラマのヒロインとして引っ張りだこです。まぁそんなことはどうでもいいのですが……

 

今日は演出の話。

怪盗山猫というすずちゃんヒロインのドラマを見たのですが、主演の亀梨和也くんと広瀬すずちゃんが声を荒げながら対決?するシーン。亀梨くんたちの演技を称賛する一方で、正直言って「やかましい」。脚本そのものにあまり問題はないとないのですが、いかんせん山猫の演技にクセがありすぎる。

対決するシーンもうるさいだけで、もっとコミカルに対決させた方が二人のキャラクターが映えるのではないのかと。正直、この路線がずっと続くと思うとかなり重いドラマになるんじゃないかなぁ。お話ではなく演出的に。

例えば、叫ぶシーンとか泣くシーンがあるとするじゃないですか。でも実際にやられると愉快ではないですよね。だから、そういう感情の爆発点みたいなところはトドメの一押しという場面で差し込む。でもドラマ本編ではそういうシーンの尺が長かったからか、ちょっと不愉快になってしまったんですよね。

半沢直樹でもそうだったんですけど、あれも結構声を荒げる演技がくどいなと思って見てました(笑)

そういう意味では同じ日テレの花咲舞が黙ってない!はそこら辺すごく上手で、だから高い視聴率につながったんじゃないかと。

 

映像作品の演出ってもの凄い力を持っているんですよ(現場では)

どんなダメな本を書いても、いい演出家がついてれば名作になってしまうし、当然その逆もあるわけですよ。個人的に怪盗山猫の場合はちょっと演出過多かなというシーンや役作りが目立った気がします。(正直、原作を知らないので何とも言えないんですが)

僕も書くときに気をつけているのですが、感情をさらけ出すシーンは本当に書くのが(表現するのが)難しい。演出もそれに準ずると思うのですが、そういったシーンほど慎重に演出してほしいなぁというのが最近思うことです。

たぶんどの演出家の方も苦慮されてると思うのですが、本をダメにするのだけは止めてね、うん。

 

 

 

 

 

Legend of Gold

三賀日も明けて、日常に戻りつつありますね

今日は病院でクソ待たされて、特段何もしてないのに疲れたとか言ってるハヤカワです。

待ってる途中でずーっと山本直樹の漫画を読んでいたのですが、これがまた素晴らしい。読むたびに感心してしまいます。内容は言えたものではありませんが……

 

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1月で展示が終わってしまうので西洋美術館の黄金伝説展に行ってきました。

ホントはSWが見たかったんだけど、映画館が混んでてて……

でもこっちの方は思ってたより空いてたので助かりました。黄金の品々だけとか結構マニアックだよねこの展示(笑

面白かったけどさ

今度の三連休は兵馬俑展に行く予定です。たぶん凄い人だと思うけど……

 

ていうか、そんなことよりガンプラを消費せねば!

でわでわ

 

 

やるべきことはやりましょう

新年、明けましておめでとうございます。

今年も無事に新しい年を迎えられたことを幸せに思います

2016年の目標はまだありませんが(ないんかい!)、地道に頑張っていきたいと思います。

タイトルの通り、年始にしかできないことってありますよね

実家に挨拶したり、初詣に行ったり……色々ありますが、その前に!

やるべきこと、あるんじゃないの?

(年末までに片付けておけよ……)

 

 

僕は、部屋に積りに積もったガンプラの整理

これをせねばならんのですよ。

いやぁ、プラ箱が結構なスペースを占領してましてね……今年こそはこいつらを片付けて図録のスペースを確保したいなぁと

でもよく考えたら、去年も同じようなことしてたような……

新年の一発目もガンプラの整理です、はい。

歴史は繰り返す

 

 

謹賀新年

 

一年の反省をした

人生ってもっと楽しいものだと思ってた!!

 

もうこの一言。あとは今年は入院せずに済んでよかったねってことぐらい。

開き直ってるだけかもしれんが、最近心身共に限界が来てる感じがする。

生きるのに疲れた(笑

 

別件だけど、このまえ某長編アニメを見たの。

そしたらこれがめちゃくちゃつまんまなくて。

プリキュアの方が全然面白いレベル。

そしたらその作品脚本家が4人もついてるのよ。

90分の作品で4人も付けて、まともな作品が作れないってどうなのよと総ツッコミ。

映像作品はいろんな人の手がかかっているので、僕は脚本だけのせいするのは稀なんだけど、それを差し引いても酷い。まぁ演出もけっこう酷かったけどさ……

個人的に思うのはアニメ脚本家ってオリジナル長編になるとほんとボロが出る。たぶん、一時間ものも書けないんじゃないかと思う時もある。普通90分の作品に4人も付けないよ。一人で十分。

デレマスの時もそうだけど、原作が無いと(まぁ一応あるんだけど)お前らまともなストーリーも描けないのかと。昔は筆力のある作家さんがいっぱいいたんだけど、今はアニメ分野では希少種だよね。とりあえず“脚本”は書けますレベルのやつばっか。基礎から鍛えなおして来いと言いたい

 

一年の最後に、猛毒を吐いたわけですが、来年はどんな毒を吐くのかな?

(来年まで続いてるんだろうか……)

皆さま、よいお年を